昭和45年1月6日 朝の御理解       (末永信太郎)    №45-熊01



御理解第70節
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならん。

 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならん、と。お道の信心は、万物の霊長である私ども人間氏子が、神の氏子としての自覚に立って、神の氏子としての値打ちを、いよいよ値打ち足らしめるというところにあるのです。ね。
 人間は万物の霊長だと威張ってばかりはおられない。霊長なら霊長としての値打ちがどこにあるか、ということを教祖は、いよいよ、掘り下げられ、いよいよ、そこのところに取り組んでの神信心、いわゆる、実意丁寧神信心をなさり、ね、まあ、完璧なまでのじゃなくて、やっぱり、完璧。ね。完璧な人間、万物の霊長としての値打ちを真っ当せられた。
 それを、生神金光大神と言うのである。しかも、その、生神金光大神を、この目指すということがです、お道の信心である、と。いわば、万物の霊長としての値打ちを、いよいよ値打ち足らしめるということは、その値打ちを発揮できるということ。ね。霊長の値打ちを発揮できるおかげをです、楽しませてもらい、そこに焦点を置いての信心でなからなければならん。
 そこで、道理に合う信心をせねばならんと、こう教えておられる。よくお芝居の(選曲?)じゃないですけれども、道理じゃ道理じゃもっともじゃ、といったようなことを使いますよね。ね。だから、そういう道理じゃないのです。人間が考えてね、合点が行くようなものじゃないです、道理というのは。ね。いわゆる、信心をしなければ分からんのです。御教えを頂かなければ分からんのです。ね。
 ただ、道理に合う、と。まあ、それこそ芝居などで申しますような台詞で言う、はあ、もっともじゃ、道理じゃといったようなものではないのである。ね。そこで、信心させて頂いて、いわゆる、本当のこと。いわゆる、真実とも(   )ね。私はいつも申します事ですけれども、お道の信心は、常識から一歩出たもの。いわゆる、非常識。非常識ということは、分からんこと言う奴じゃという、あの非常識じゃない。ね。
 一応は、その常識を心得て、その常識をもう一つ上まるもの。道理でも同じこと。芝居で言う、例えば道理じゃ道理じゃ、もっともじゃというのは、これは、人間が言う道理なのである。ね。ですから、その、もう一つ向こうにあるもの。ね。それを、私は超道理と言わねばならないほどに、皆が道理を分かっていないということ。ね。私はそれを、非常識とか。ね。常識にあらず、超常識だ。ね。普通で言う道理じゃなくてです、いわゆる、超道理と言わねばならないほどしにです、道理のことが難しいもののように言われるわけなのです。ね。桂先生が仰っておられますように、ね。親に孝行をして神に不孝をし、親に不孝しておる氏子があると仰る。親に不孝をして神に孝行をし、親に孝行しておる氏子がある。ね。
 いかにも、親孝行、と。撫でたりさすったり、親の思いに添うことが親孝行と心得ておる。そして、神の方への、いわゆる超常識とか、超道理というところが分からずに、結果は親を不孝に落として行ってしもうておるという事なん。ね。いかにも、親の意に背くとか、ね、親の言うことを聞かんようであるけれども、ね、いわゆる、親に不孝をし神に孝行をしておる。いわゆる、神様の仰せには背かれません、という生き方。ね。神に孝行をして、ね、親に不孝をして。そこまでは、いかにも親不孝のごたる。けれどもです、もう、これは絶対なのだ。ね。金光様の信心、御取次ぎを頂いてそのことがなされる限り、ね、親を不孝に落とし入れることは絶対にない。ね。
 親に不孝をして、後に、ね、いわゆる本当の意味においての親孝行が出ける。そういう、いわば氏子を目指すということなん。だから、いわゆる、本当のおかげを頂くということなんだ。ね。嘘のおかげとか、本当のおかげとかと言うて、あるはずはないのですけれども。ね。本当の意味においての、いわゆる、お芝居で言う、道理じゃもっともじゃ、というものではなくて、それを超えたもの。それが、本当の道理だ。
 それを、ここでは、言い様がないから超道理と、こう言うておるわけです。71節のはじめのところに、ね、70節の次ですわね。ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ、と仰っておられます。ここには、信心の稽古に通うて来るところ、よく、信心の稽古をして帰れ。ね。
 私の控えに三代金光様のお書き下げの、信心のけいこ、と見やすう見やすう、ひらがなで書いておられる色紙がございます。それを、いつも私の横に置いて、拝ませて頂いておるわけですけれども。ね。もう、本当に信心のけいこならざるものなしです。もう、すべてのことが、信心の稽古の材料です。ね。
 だから、そのことがです、お広前へ持ってこられて、それを自分でね、それに道をつけよう、自分で我流で稽古をしようというところに間違ってくるのです。そこんところが、私は他の信心とは違うところだと、こう思うですね。ここへは、信心の稽古に来るところだ、と。ね。
 ここへは、信心の稽古に来るところ。そこで思わせて頂くことは、稽古にならない、稽古の材料でないものは、何一つとてないほどしの、やはり、稽古の材料は私どもの周囲にいっぱいなんだ。ね、それをここへ持って来て、お取次ぎを頂いて、稽古をして行くというところに間違いのない道付けというものが出けるのである。ね。道理に合うということは、道の理である。
 自分の浅はかな頭でです、道付けしようとする。人の真似をして行こうとするところに、これは、もう、その人その人によって違うのであるから、この人に右と言うたから、この人にも、やはり右かと言うわけにはいかんのである。ね。
 ですから、お取次ぎを頂かなければ分からんのであり、お取次ぎを頂いて、例え分からんでも、そこに道付けをして下さる働きがあるから、間違いのない、いわゆる高橋ひろし先生の言葉ではないですけれども、御取次を頂いて起きてくることは、良いこと悪いこと、みな良いと言うておられる。
 ちゃんと道がついて行くのである。御取次を頂かずして起きてくる事は、良いことでも悪いことでも、みんな悪い、と言うておられる。もう、極言です。事実、またその通りなんです。ね。それを、自分の心の中で、自分のただ、言うならば我流でそれに道を付けようとするところに、多いにして間違いが起きてくるんです。ここへは、信心のけいこに来る、と。
 ね、その稽古に来る時にです、本も持って来なければ、鉛筆も持って来んとと同じことです。ね。例えば、御取次の材料をここへ持って来なければです、信心の稽古ということにはならん。ただ、拝みの稽古とかだったら、家だって稽古出来るでしょう。大払いを覚えるための稽古だったら、家でけっこう覚えられますでしょう。ね。稽古の材料をここへ持ってくるから、稽古になるのである。ね。
 お花の稽古をするでも、ただ、勉強をすると言うても、ただ、本を聞いてきただけじゃいかん。実際にお花の材料を持って行って教えて下さいと言わなければ、本当のいわゆる花のけいこにならんような道理なんです。今朝、私は「与力道心」ということを頂いた、字で。ね。「与える力」。「道心」というのは、どういう意味か知りませんが、私が今日頂くのは、「道の心」と頂いた。
 皆さんはご承知ですよね、与力道心というのは。(十手?)を持って、提灯を持って、ね、御用の提灯を持って、「御用御用御用」と言うておるあれの、もう一つたしかに、上の役が与力道心です。いわば、袴をつけて、紋付を着てる。ね。まあ、言うならば、私のことと言うか、私どものように御取次の御用にいわば専念させて頂いておる者のことではなかろうか。
 力を与える。ためには、私が力を頂いて、与える物を持っとかなきゃいけん。今日の御理解で言うと、道の心を知っておかなければならん。いわゆる、本当の道理を知っておかなければならん。人間の頭で考えた道理ども御取次しよったようなことでは、おかげになるはずがない。だから、私はそれを二つ、まあ、よく色んな問題の時、私はこげん思うばってんね、まあ、とにかく神様にお願いをしてから、神様のお心はどうじゃろうか、という風に申します。
 私はこげん思う。それを私は、その取次ぎを願う人の心になって言う、実は。ね。あんたは、こう、それが本当と思うとろうけれどもと、こういうわけなん。けれども、私の場合は、もう、金光大神のお手代わりとしての見方をするならです、それは、こうだと、これが本当だという風に、まあ、申します訳ですね。
 お役に立たせて下さいとか。2~3日前でした、総代の永瀬さんが白癬を持ってみえて、毎年、持って見えるんですよ、白癬を。そして、これに、何か一筆書いて下さいと、こういうわけ。今年は、永瀬さん、もう私は誰も、何人も例えば御神米にお書き下げを頂きます。そのことすら、全然してない。
 けれども、書いてくれと言うて、ここに実際に、さあ、持って来られたら、この頃、羽田野さんにあれを書いて差し上げたように。なら、書かせて頂きましょうと言うて、まあ、預かった。ほれで、すぐ書かせて頂こうと思うて、ええ、お願いさせて頂いたら、「光」という字を頂いたんです。光、金光教の光ですね。
 ですから、その光という字を右肩に大きく書いて、小さく、ね、世のお役に立たせて下さいと、まあ、書かせて頂いたんです。今年の、まあ、言うならスローガンのようなものですからね。世のお役に立たせて下さい、と。ね、いかに、世のお役に立たせて下さいと願うてもです、光を持たなかったら、本当のお役に立たんのだ。ね。ですから、光を受けることが先決なんだ。
 いわゆる、与える力。それには、道心。いわゆる、道の心というものを、本当に体得しなければいけない。その道の心をです、私は、それを超道理とか、ね、超常識とかという言葉で言うわけです。ね。どうぞ、皆さん、信心させて頂いてね、普通一般で言う親孝行どもしたっちゃ、親孝行にならんですよ、絶対。
 言うなら、神に不孝していくら親孝行したっちゃ、おかげにはならんです。ね。いかに、(まめ?)の前には神に孝行して、親に不孝しておることがです、いかにも、まあ、ある意味合いでは強情じゃろうか、言うことを聞かんと、まあ、親がその時には嘆くかも知れませんけれども。ね。後で、はあ、やっぱり、これが本当だった、おかげであったという、その本当であったというところにです、本当の道を歩かなければ、本当であったというおかげは、生まれてくるはずがない。そうでしょうが。
 人間万物の霊長であるからと、私は万物の霊長だと言うただけで、なら、霊長としての値打ちというものをどこに発揮しておるか、と。ね。先日、その羽田野さんに書いた(  )のように、ね、「欲の我のそれぞれにありたまゆらら」。ね。自分の思いとか、自分の欲といったようなものを、ね、それを、私は、ね、神様のほしたもう欲。ね。神様の私共に求め給うところの我。ね。
 いわゆる、小我を捨てて、生き抜けということになる。人間の考えで言う道理はです、どこまでも小我です、小さい我です。ね。大我に生き抜くということは、もう、大我そのものがです、神様の言うならば我とでも言おうか、神様の心なんだ。初の壮年部会が、(不自由な爺ちゃん?もう十二時すぎた?)、あんまり熱心に皆さん話しておられましたですから、もう、十二時過ぎました。
 ただ、もう本当に、まあ、今日はお互いぎりぎりのところを出し合ったですねと言うて、まあ、最後になりましたけれど。ね。いわゆる、ぎりぎりのもの。私がこういう風に、皆さんが今、ね、信心しておって有り難いと思われることは、どういうことですか、と。
 皆さん、どうでしょうか。信心をこうして頂いておられてですよ、今、あなたが一番有り難いと思われとることは、どういうことでしょうか。ね。信心させて頂くようになって、家族中の者が健康で薬一服頂かずに、健康で日々信心のけいこが出けておるということを、もう、何よりも有り難いと思います、と。ね。
 合楽に御神縁を頂いておったということを有り難いと思います、と。日々の御教えを頂かせてもろうて、どうしてこのような御理解が毎日頂けるだろうか、と。先日なんかは、まあ、三日続いて、一つの御理解を頂いたが、どうして、こういうあらゆる角度からと言われるが、あらゆるから、このような風に御教えが説かれるのであろうか。私どものような者にでも、分かりやすく、それが説いて下さるということは、何と有り難いだろうか、教えの深さに触れて行くという事が有り難い、と。
 皆さん、それぞれに、今有り難いと思うておることについて、色々お話になっておられます。中に、久富勇さんが発表しておられる事ですよね。難あって喜べとか、ね、難儀な中に有り難いと分からせて頂くということは、もう、実際は、もうどのくらい聞いて来たか分からん、頂いて来たか分からないて。
 けれども、去年一年の様々な難儀を通して、ようやく家内と二人で毎日話させて頂くこと、去年一年で、本当に難がおかげであるということをです、少し分からせて頂いたということが、私の今有り難いと思うておる事はそれだ、という話をなさっておられます。
 天を拝むことは知っておりますけれども、地を拝むことを知らない。いや、金光様の信心すりゃ、やっぱ天地を拝してますよ、拝んでますよと皆が言うだろう。けれども、本当に地が拝めるということはね、いわゆる、勇さんが言われるように、ね。人間の目に見えるところは難儀である。ね、難儀に見えるけれども、それを難儀とせずに、神愛と頂き、有り難いとそれを合掌して受けられてきた、と。それが実感としてです、ね、それが有り難いと少しわからせて頂いた、と言うのである。
 もう、家内との、いわば毎晩、夜寝物語は、もう、ここばっかりですち。去年一年、激しい、ああいう修行をさせて頂いたが、そこを通らせて頂いて、初めて、言うならば大地が拝めるようになったということ。大地の信心ということはね、それこそ、全てのことが黙って包容出来るとか、黙って受けられるという信心が頂けて、初めて大地が拝めれるということになる、天地が拝めるということになる。
 天は与えて与えて止まぬもの、与えられるから、合掌誰だってする。けれども、地を拝ませてもらう信心が欠げておる。ね。私は思うのです、ね、これは、万物の霊長であるから、その素質を持っておるから、それが出けるのです。言うならば、心を自由自在に使うことが出けるのは、人間だけです。それを、自分に自由自在に使うけいこをせずして、我情我欲に走ってしまうというところ。ね。
 霊長の値打ちを作っていくということはね、私はそのようなことだと思う。ね。お道の信心はどこまでもです、万物の霊長としての値打ちを値打ち足らしめて行くということ。それは、金光様を信心をすりゃ誰でも出来るかと言うと、決してそうではない。ただ、常識的なことから、普通、人間が言う、はあ、道理じゃ道理じゃ、もっともじゃというところから一歩も出ていない。
 それで、たとえば本当の天地のひれいに浴することは出来るはずがない。ね。天地のひれいというのは、天地が動いて下さるほどしのことなのです。私どものために、天地が動いてくださる。それには、私が本当の意味においての、道理に合う信心。いわゆる、道のり、いわゆる、道の心を知らなければならん。ね。
 いわゆる、天地に道ありである。それは、天地に通えれる道なんだ。ね。ところが、様々なところに、その道をつけるから、大変ややこしいことになって来る。やはり、十文字に道を付けようとする。ね。夫婦道とか、商売道とか、ね、言うなら武士道とかという風に、その様々な道。
 先日、こう、指圧心は母心と言う人があるでしょう、テレビで。あの人が、この道のつくものに、その、みんな素晴らしいものだ、と。いわゆる、道の付くものの方には、悪人はいないといったような事を言っておられたですね。その精神が、華道にしろ、茶道にしろ、武士道にしろ、ね。その道というものは、素晴らしいという事を言っておられる。だから、言うなら金光道というか、ね、金光様のお道というのはね、ね、そのお道をね、体得するとね、お茶の道にも、華の道にも、武士道にもです、様々な道に通う道が、金光道なんだ。ね。その金光道の中にも、夫婦道とか、何々道とかと言い出してから、えらい、こう、ややこしゅうなって来たですね。
 あまりに(あい十文字?)に道が出けすぎた。道という、いわゆる、言葉に迷うことなかれ、である。本当に、あんまりいくらも道があるもんだから、その道に迷うことになってしまうのである。道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏むほかはなしである。金光道とは、それなんです。ね。
 ということは、どういうことかと言うとです、私どもが人間万物の霊長としての値打ちをつくるという事なんです。それを、教祖様は真の人とか、ね、真という言葉を持って言うておられます。万物の霊長としての値打ちをつくるということを目指すことがです、真の人を目指すことなんです。そこに、いわゆる、真の道の心得というのがあるわけですよね、お道では。だから、その真の道の心得というものを一つひとつマスターしてですよね、おかげを受けて行かなければいけません。
 どうも、何と言うですかね。ただ、おかげを浅いところに置いておる。いわゆる、ですから、もう、自分方だけが、もう、その(上良う?)行きよりゃ、もうそれでよかというような感じです。いわゆる、マイホーム的な考え方です。とても、人のことだん、というわけ。ね。
 私どもが今年、本当にお役に立ちたいとの、ね、世のお役に立ちたいという、その願いを立てさせて頂くからには、まず、万物の霊長としての値打ちをつくらせて頂くことのために、精進まずしなければならん。それには、普通で言う道理といったようなものでなくて、ね、私が超道理、本当の道理を超をつけなければならんほどしに、その、道理が狂っておる、間違っておる。
 そこから、道がいくらでも出けてきた。そういうものではなくてです、私どもが万物の霊長としての値打ちをつくるための道。教えのすべてが、それである。この道を歩かせて頂きよりゃね、親子の道にも、夫婦の道にも、商売の道にも、茶道の精神である精神にも、お花の心の上においてもです、一致するものがそこから頂けてくる。あまりに道が多すぎるから、ね、道という言葉に迷うて、どれがほんなこっじゃろうか、ということになってくる。ね。
 だから、これと、信心はこれと、一つなんだ。だから、それにね、邁進する、それを行じていくということ意外にないのである。ね。そこからです、ね、超のつくようなおかげが生まれてくる、と。ね。それは本当を言うたら、それは、もう当たり前のことである。私どもが(お徳の?)言うてある本当の意味においての道理に合う信心をさせて頂くならばです、皆がそういうおかげが受けられるのである。ね。
 その焦点、その目指すところはです、やはり、生神金光大神である。皆もこのようなおかげが受けられると仰せられるのであるから、さあ、生神金光大神になるためには、あの道もこの道も体得しようとするところに、いわば本当の生神金光大神を目指すことも出けないで終えてしまわんならん。
 本当の生神金光大神を目指させて頂くということは、もう実に、はあ、この生き方で行きゃあ、これは金光大神になれるぞ、というような楽しみがね、信心の楽しみなんです、お道で言う信心の楽しみというのは。喜びというのも、それです。はあ、この喜びが広がって行きゃ、生神金光大神を目指して行けれるというものなんです。ね。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ。ね。万物を見てということは、今日、私はそこんところを、ね、私どもの周囲には信心のけいこをさせて頂く材料がいっぱいだ、ということでした。これは、万物の霊長でなかなきゃ、それをそれと頂っきらん、生かしきらん。ね。
 その、例えばけいこの材料をです、ここへは信心のけいこに来るのである。よくけいこして帰れ、と。ね。御取次を頂いて、そのことが、本当の道に基づいてのおかげになって来る。昨日の朝の御祈念のあとに、堤清さんが、今朝から御神夢を頂きました、初夢ですと、初夢をこう頂いた、と。ちょうど、二日市の天満宮様にありますような太鼓橋。いわゆる、神様の世界と氏子を取り結びの御取次の橋と言うても良いでしょうね、それを。それを誰とか、ああ、嘉朗さんじゃったか。嘉朗さんと二人で、その、頂上まで上って来た。ところが、もう、水がどんどん(出てきてですね?)。
 そしたら、誰かがその、頂上に立っときゃよかという風に言われるもんじゃけん、立っとったところが、あんまり水が多うなって来てから、その橋を押し流して倒れてしまった。御取次の橋が倒れてしまった。さあ、川の中に投げ出されてから、一生懸命、右手を切って、その、まあ、泳いで岸についたお知らせを頂いたと、こう言うのである。ね。
 そしたらね、「それを教えたいばかり」と頂いておられる。それとは、どういうことであろうか。御取次を頂いてお願いをした。そしたら、かえって反対のことになったというなことがあるでしょうが。ね。いわゆる、御取次の橋が、もう壊れて倒れたようにある。ところが、上がってから、また見たところが、はあ、その橋はやっぱり元通りにきれいにしとったっち。ね。
 絶対、御取次の橋が倒れることはないけれどもです、倒れたようにあるけれどもです、川の中に投げ出されるけれどもです、もう、だいたい泳ぎを覚えたから、さあ、この中にでも泳ぎきるかどうかということを、神様は試される必要を感じられるのである、神様が。だから、投げ出される。
 そこで、なら、泳ぎの手を覚えたということになる。それを教えたいばっかりなんだ。それを御取次を頂いてこうしとけ、というようなことを言わずに、御取次を頂いて起きてくること、良いこと悪いこと、みな良いと確信すること。
 そして、体得させて頂いた、覚えさせて頂いたそのことが、ね、いわゆる、泳ぎの術を体得させて頂く。また、それを教えたいばっかりという神様の願い、また、神様の思いを分からせて頂く。ね。この橋の頂上に出るだけでも、まあ、ある意味合いでは大変でしょう。ね。こんなに、饅頭のようになっとるのですからね、あそこの橋ちゅうのは。ね。そういう場合にですね、やはり、万物の霊長で、霊長としての値打ちをいよいよ、段々つくって行きよる、だいぶん出けてきた。出けてきたから、まあ、どのくらいと神様が試されることになって来るのじゃないでしょうか。ね。
 私どもが、今日から寒修行を迎えさせて頂いて、まあ、このように皆さんが修行を発心されて、おかげを受けられた。ね。これが一つ、だんだん、ね、多くなって行くことだろうと思います。ね。有り難いことなのですから。ね。その多くなって行くことであろう、その信心のけいこの内容をです、確かめさせて頂いて。ね。今年の、ここでお役に立ちたい、と。ね。
 例えば、皆さんが十手を持ち、言うなら御用の提灯に光の入ったものを持ってです、御用御用を承っておい出られる。私は、いよいよ、与力道心としての値打ちを、いよいよ作って行かなければならん。ね。先日、青年の方達が御本部参拝をさせて頂く、ここにみんな集まって御祈念させて頂いた後に頂きますことがですね、それはそうですね、若い青年の方達ばかりが五十人近くも御本部参拝しようと言うのですから、それは勢いが有り難い。お広前いっぱいが活気で満ち溢れる。
 有り難いなあ、これが合楽のごひれいだと、誰でも感じるだろう。けれども、神様はね、これは合楽のごひれいではない、九州の道のごひれいぞ、とこう教えて下さった。私どもがこうやって稽古させて頂いておることがです、ね、このように沢山な朝の御祈念にでもお参りして来るということはです、合楽のごひれいではなくて、そのまま、これは九州の道のごひれいとしてです、ね、桂松平先生の信心を継承させて頂いておる者として恥ずかしくない信心をです、頂く。
 桂先生が教えられる、本当の意味においての道理。いわゆる、その、超道理と私が申しましたが、そういう、道理に合うた信心をさせて頂くことがです、ね、九州の道のいよいよひれいになることである。もちろん、そのひれいを傷つけるようなことがあってはならない、と。ね。私どもは、もう本当に、今日只今からです、ね、九州の道のひれいのために、信心のけいこをしておるんだという思いだけでも、大きな意味においてのお役に立つことになるだろうと、こう思う。ね。
 もちろん、それは、九州の道のひれいということは、もちろん、お道のひれいということになりましょうけれどもですね。もう、実感としてです、私どもが合楽のひれいから、九州の道のひれいを打ち立て輝かせてもらえるほどしの実力を頂いて、いよいよ、そのことがです、九州の道のひれいがそのまま、お道のごひれいに繋がって行くようなおかげを頂かなければならんというようなです、一つ高度な願いに立っての信心を頂きたいと思うですね。
 昨日、末永先生が見えておられた。それに、(まさき?わたる?)先生も来ておりましたから、新しい顔ぶれが入って、まあ、生き生きした会合が出けたわけですけれどもね。ね。あの、本当の意味においてのですね、いわゆるおかげと言うか、合楽の信心と、現在お道での言われておる信心とがですね、その一致点が出て来るおかげ。それにはね、問題は合楽自体がいよいよおかげを頂いて行かなければならない。言うなら、銘々が本当におかげを受けなければならない。ね。
 その、私がおかげを受けるということがです、九州の道のひれいにも繋がることなんだ。だから、色々な話が出ましたけれど、問題はね、合楽で言うなら合楽自体が、もう、より、もっともっと、おかげを頂いて行く以外にはないのだ、と。それを、中間から見るとです、合楽は自分達のことばっかり、それこそマイホーム的な信心のように見えるかも知れませんけれども。決してそうではない、九州の道のひれいに繋がることのために、私ども一人ひとりがおかげを受けなければならない、教会のごひれいが、いよいよ輝かなければ、いわば、九州の道のひれいということになって来ないということですよね。どうぞ。